ハンセン病療養所 東北新生園を訪問

東北新生園

東北新生園は宮城県登米市の丘陵地にあります。約35ヘクタールの広大な敷地に、治療棟、ケアセンター、多目的ホール、管理棟、資料館、教会、寺院、霊安堂など、たくさんの建物と公園、グランド、池などがあります。1938年に創設され、1955年には630人の入所者がいましたが、現在は26人、平均年齢は90才を超えています。

ハンセン病の原因は「らい菌」です。らい菌は結核菌に類似していますが、感染力は非常に弱く、公衆衛生や栄養状態が良い現在では、感染しても発病することは稀です。発病すると手、足、目など抹消神経が麻ひし、汗が出なくなったり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなり、皮膚にさまざまな病的変形が起ったりします。1900年代にはペストやコレラのような恐ろしい伝染病と考えられていました。1907年に「癩予防ニ関スル件」が制定され、各地を放浪する「浮浪らい」と呼ばれる患者の収容が始まり、さらに1931年に「癩予防法」が成立し、すべての患者の強制隔離が進められました。各県では「無癩県運動」が実施され、患者を見つけ出して通報することが奨励されました。患者を出した家は真っ白に消毒され、引っ越しを余儀なくされたり、故郷や親族との縁を断たれたりしました。療養所内での結婚では不妊手術が強制されました。

1943年にアメリカで「プロミン」という薬の有効性が判明し、日本でも1947年からプロミンによる治療が始まりました。しかし、国は1953年に「癩予防法」を「らい予防法」に改定したときに、治療法が確立していたにも関わらず強制隔離政策を継続しました。1996年にようやく「らい予防法」が廃止されましたが、根強い偏見や差別は解消されませんでした。2001年に熊本地裁での国家賠償訴訟で、強制隔離政策の違憲判決が出され、2008年には「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が制定されました。

新生園での子どもたちの教育については、当初は大人の入所者が教えていましたが、1951年に葉の木澤分校が開校し義務教育が実施されました。今は資料館になっています。教職員室は入所者の教師用と外部からの教師用が、感染のリスクがないにも関わらず扉で隔てられていました。入所の際に本名や戸籍を捨てたため、故郷に帰れない、肉親と再会できない人もいます。霊安堂には故郷のお墓に埋葬できない430の遺骨が納められています。霊安堂への急坂を高齢の入所者が上がれないので、最近、平坦な場所に三重塔が建てられました。現在はもちろん入所者は自由に外出できますが、高齢で介護が必要な人も多い状況です。園は地域に開かれていて、ゲートボール大会、夏まつり・花火大会、少年少女野球大会などの地域交流を積極的に行っています。

科学的でない間違った政治判断が、社会の偏見や差別を助長し、取り返しのつかない人権侵害を引き起こし、今なお苦しんでいる人がいます。厚生労働省はハンセン病の問題を啓発する冊子をつくっていますが、義務教育でもっと積極的に教えるべきです。厚労省の冊子に、1歳のときに発症した母親から強制的に引き離され育児院に預けられた人が書いています。「国の政策が常に正しいとは限りません。何が正しいかを市民一人一人が自分で考えて行動することが大切だと思います。」